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『グレイテスト・ショーマン』は障がい者差別の作品なのか?

結構前の作品になりますが、『グレイテスト・ショーマン』が公開されたときは日本でも話題になりましたね。今回はこの作品に登場する障がい者たちと、主人公の彼らの扱いに対する批判を取り上げたいと思います。

『グレイテスト・ショーマン』のあらすじ

主人公はバーナムという貧しい生まれだが想像力豊かな男性。

彼は小人症の男、大男、髭の濃い女、全身刺青の男、結合双生児の兄弟など、世間から隠れるようにして生きてきた様々な人を集め、ショーを始めることになる。

ショーは大盛況になるが、一方で激しい抗議活動にも会い、ついには劇場が放火されてしまう。

しかし団員が一致団結し、野外にテントを張りショーを再開する。これが後のサーカスの原型となった。

グレイテスト・ショーマンに対する批判

私自身は映画館に行きとても楽しく映画を鑑賞しました。音楽の良さも話題になり世間的にも大ヒットしましたが、そんな中Twitterではこんな批判も目にしました。

主人公バーナムは障がい者を見世物にして人々の前に晒している。これはれっきとした差別だ、と。また障がい者を金儲けの道具にしているという批判も度々聞かれました。

これに対しての私の反論ポイントは次の3点です。

グレイテスト・ショーマンは障がい者差別の作品ではないと思う理由
  1. 「障がい者が見世物にされている」という発想こそ差別的
  2. 「自分の意思で出演している」という発想の欠如
  3. 人権意識のなかった当時の最適解

順番にご説明していきます。

1.「障がい者が見世物にされている」という発想こそ差別的

まず「障がい者が見世物にされている」という感想に対しては、「そのような発想に至ることの方がよっぽど差別的ではないのか」と考えています。

考えてみてください。健常者がサーカスでパフォーマンスするのを見て、私たちは「健常者が見世物にされている」と思うでしょうか。むしろその圧倒的なパフォーマンスをかっこいいと感じるのではないでしょうか。

障がい者によるパフォーマンスも、それとなんら変わらないはずです。彼らはサーカス団員としてプロフェッショナルなパフォーマンスを行っているのです。

それを見世物にしていると感じるということは、無意識のうちに「障がい者は人目に触れずひっそり生きるべきだ」という偏見を持っているということなのではないでしょうか。

2.「自分の意思で出演している」という発想の欠如

もう一つ、上記の批判から透けて見えるのは、「障がい者は自分で判断できる脳と力を持っていないので、無理やり、あるいは騙されてサーカスに出演させられている」という考え方です。

もしそれが正しければ、確かに自分の意思ではなくサーカスに引っ張り出されているのはひどいことですね。

しかし実際はどうでしょうか。少なくとも映画の中では、バーナムはオーディション(面接?)を行っていたと思います。つまり彼らは、自らの意思でサーカスに出ることを選択したわけです。

プロとしての出演料も当然支払われていたことでしょう。奴隷的立場で有無を言わせず表舞台に放り出されたわけではないのです。

そんな彼らに「見世物」「道具」という表現を使うことは果たして適切なのでしょうか。

3. 人権意識のなかった当時の最適解

最後の反論ポイントとして、「批判する人たちは時代背景も考慮していますか?」と言いたいと思います。

映画の舞台となっている19世紀半ばのアメリカというのは、ちょうど南北戦争が行われた時期であり、人種差別が横行していました(残念ながら今だにその差別はなくなっていませんが)。

現代を生きる私たちは人権にまつわる議論を耳にしたことがあると思いますが、当時の人々にどれだけ人権意識があったのか、そもそも「人権」という概念を知っていたのかは、私は疑わしいと思っています。

そんな当時のアメリカで、障がい者は他の人となんら変わらない生活が送れたのでしょうか。それこそ映画で描かれているように、ひっそりとなるべく人の前に出ないように過ごすことで精一杯だったのではないでしょうか。

そんな障がい者に対して、人前で輝く方法があることを示したバーナムは、まさに希望の光だったのではないかと想像しています。だからこそ彼らもオーディションを受けに来たのではないでしょうか。

まさにあのフリーク・ショーは当時の最適解だったのではないかと思うのです。

そしてそのショーを差別だと批判している人も、その批判こそが差別的だと反論している私も、もし19世紀の当時を生きていたら仲よく障がい者差別をしている可能性が十二分にあるのです。皮肉な話ですね。

本当のところは当事者しかわからない

ここまで語ってきてなんですが、実際このショーはどうだったかというのは、当事者であるサーカス団員たち、そしてそれを目撃した観客しかわからないことだと思います。

当時の人に話を聞くのは無理だとしても、現代を生きる障がい者の方達がこの作品をどう思っているかは非常に気になるところです。なぜならどれだけ想像力を巡らしても、実際に同じ経験をしている人にしかその痛みはわからないからです。

二つ確かなことは、このような議論を巻き起こしている時点でグレイテスト・ショーマンの社会的意義は大きいということ、そしてここにいる一人の人間がその作品から感銘を受けたということです。しばらくはThis Is Meを口ずさみながらブログを書くことになりそうです。

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