M-1グランプリ2022が無事終演し、ウエストランドが第18代王者となった。
そんな中いまさら2020年のマヂカルラブリーの漫才か漫才じゃないか論争を持ち出しているのは、次の記事を読んだからだ。
要約すると、M-1優勝から2年経った今でもマヂカルラブリーの元にはSNSで「M-1がおかしくなったのはお前らからやねん」という中傷コメントが届くという内容。
いまだに尾を引いているらしい漫才か漫才じゃないか論争。
実はこの論争の根底には全く別の思いが潜んでいるのではないか?
1つの仮説が立ったため、本記事でまとめていこうと思う。
マヂカルラブリーの漫才スタイル
マヂカルラブリーの漫才が漫才なのか漫才じゃないかという議論を紐解くには、まずはマヂカルラブリーの漫才スタイルを定義する必要がある。
M-1時のネタは上がっていないので、代わりに「くら寿司 道頓堀店オープン」記者発表会での漫才を取り上げようと思う。
この時も陣内智則さんに面白おかしく「漫才じゃない」と言われているのがわかる。
マヂカルラブリーの漫才が漫才じゃないと言われる理由は、その独特な漫才スタイルにある。
ボケの野田クリステルさんがひたすら独自の世界観のストーリーを展開&暴走し、ツッコミの村上さんがそれにひたすらツッコミ続けるというものだ。
その漫才の中には2人の掛け合いというものは存在しない。そこが2人の漫才が漫才じゃないと言われる所以となっている。
漫才の定義
ではそもそも漫才とはなんだろうか。
マヂカルラブリーの漫才が漫才じゃないと言うからには、そこには漫才の定義が存在しているはずだ。
漫才の定義を調べると次のように書いてある。
漫才:二人の芸人がこっけいなことを言い合って、客を笑わす寄席演芸。万歳が現代化したもので、大正初期に大阪で起こった。初め「万才」と書き、のち形式も多種多様に発達。
goo辞書
「二人の芸人がこっけいなことを言い合う」=2人の掛け合いがあって初めて成立するということだろうか。この点がマヂカルラブリーに大きく欠けているということは明白である。
ただし「のち形式も多種多様に発達」と書かれているので、今となってはその形式に縛りはないということも示されている。
そもそもこの定義が絶対だとすると、「二人の芸人が」の時点で四千頭身の漫才は漫才じゃないということになってしまう。そんなのはナンセンスだ。
ここまで形式が多種多様化してしまった今となっては、2007年M-1王者のサンドウィッチマン伊達さんが言うとおり「センターマイクに向かって舞台袖から出てきて『どうも』と始まれば、それは漫才」なのかもしれない。
漫才の歴史
漫才の定義が従来の掛け合い漫才からだいぶ緩くなっていることはわかった。
では漫才の歴史はどうだろうか。過去、漫才はどんな変遷を経て今の姿があるのだろう。
現代を生きる私たちからすると、漫才の原点はしゃべくり漫才というイメージがある。
オール阪神・巨人や晋助竜介といった名だたるコンビがしゃべくり漫才スタイルだからだ。
だからしゃべくり漫才は正統派と言われるし、対するコント漫才は異端という見られ方をされがちだ。
だが漫才のルーツを探っていくと、様相が異なってくる。
ルーツを探るヒントとなるのが、先ほどの漫才の定義に出てきた「万歳」だ。
読み方は漫才と同じ「まんざい」。万歳の定義はこうなっている。
新年に家々を訪れて祝言を述べ、舞を演じる門付け芸人。また、その芸能。烏帽子 (えぼし) に直垂 (ひたたれ) または素襖 (すおう) 姿で扇を持った太夫 (たゆう) と、大黒頭巾 (だいこくずきん) にたっつけ姿で鼓を持った才蔵の二人一組が普通。千秋万歳 (せんずまんざい) に始まる。のち、こっけいな掛け合いをする寄席の芸にもなった。太夫の出身地により三河万歳・尾張万歳・秋田万歳などがある。今日の漫才のもと。
goo辞書
要するに漫才の起源は、楽器の演奏に合わせた踊りだったわけだ。
2人の掛け合いで笑いを生むというスタイルは後から誕生したものだということがわかる。
それを踏まえると歴代M-1出場者の中で最も “正統派” の漫才師はテツandトモということになる。これは物凄いパラダイムシフトだろう。
このように自分達が見知っている範囲の “常識” の中で語ればしゃべくり漫才こそが王道となるわけだが、そのしゃべくり漫才すらも派生スタイルであることが判明した。
となるとそこからコント漫才やその他のスタイルが生まれることは、もはや必然と言えるだろう。
↓漫才の歴史についてもっと詳しく知りたい方はこちら
霜降り明星のときには巻き起こらなかった「漫才か漫才じゃないか」論争
漫才はそもそも楽器の演奏に合わせた踊りという原点からスタートし発展してきたものなので、マヂカルラブリーの漫才も問題なく漫才の一つの形だと言えそうだということがわかった。
ではなぜこの「漫才か漫才じゃないか」論争が起きてしまったのか。
ここで注目したいのが、2018年王者の霜降り明星だ。
マヂカルラブリー野田さんは「ボクらの時代」という番組の中でこう語っている。
霜降りも俺らも最初は2人、マイクの横に立って、テーマを言って、コントインしちゃう。実は霜降りも同じスタイル。
マヂラブ野田 “漫才じゃない”論争に本音「霜降りも同じスタイル」「本来ならあの年に…」
要するにマヂカルラブリーも霜降り明星も、掛け合いのないコント漫才という点で同じスタイルだという言い分である。
確かに霜降り明星も、ボケのせいやさんがコントインした後舞台を動き回り、それにツッコミの粗品さんがひたすらツッコミ続けるスタイルだ。
マヂカルラブリーと非常に近いスタイルにも関わらず、霜降り明星の優勝時には「漫才か漫才じゃないか」論争は起こらなかった。
もしかすると「舞台を駆け回るのはOKだけど寝転ぶのは流石にNG」といった、我々の非常に曖昧な “常識的感覚” がこの判断の差を生んでいる可能性はある。
しかしそれだけだとマヂカルラブリーのみへの誹謗中傷に発展するにはあまりに弱い論拠だ。
関東芸人がコント漫才で優勝するのは許せない
ここで冒頭の記事に立ち返ろう。
マヂカルラブリーの2人によると、中傷コメントを送ってくる人たちの8割が「やねん」口調だったそうだ。つまり関西圏在住の人ということになる。
関西といえば言わずもがな日本におけるお笑いの聖地だ。
吉本興業が所有するなんばグランド花月は、長きに渡り有名な観光名所として鎮座している。
芸人ではない一般の人でさえも日常的にボケたりツッコんだりするというのだから、お笑いは関西の人たちにとってはなくてはならない、かつ誇るべき文化なのだろう。
かくいう筆者も関西お笑いの大ファンだ。5upよしもとが自分の青春だったといっても過言ではない。
けれども、いやむしろ大ファンだからこそ、この問題をうやむやにしたくないという気持ちがある。
この問題、つまり掛け合いのないコント漫才は漫才じゃないという言説の裏に潜む本当の感情。
ズバリそれは、「関東芸人の優勝はいけ好かない」という感情だ。
実際マヂラブ優勝前の2016〜2019年の4年間は、ずっと関西のコンビが連続で優勝を飾っていた。
その関西お笑いの勢いに水を差したのが、間違いなくマヂカルラブリーだった。
関東芸人への負の感情がこの論争を引き起こしているのだとしたら、霜降り明星の時はスルーされマヂカルラブリーの優勝の時にだけ「あんなのは漫才じゃない」となったことに説明がつく。
もちろん関東芸人の優勝がいけ好かないと表立って表明すると損をするのは自分だということは、誰しも理解するところだと思う。
そこで便利な道具として使われたのが、「掛け合いのないコント漫才は漫才とは呼べない」という主張だ。
このいかにもな主張を使えば、公然とマヂカルラブリーを批判することができる。
要するに「漫才じゃない」派が心の奥に秘めている一番強い思いは、(本人たちも気づいていないかもしれないが)「関東芸人の優勝は許せない」という思いなのではないかという説である。
関東芸人が優勝したら悔しいが、それがしゃべくり漫才だったら仕方ない。実力を認めよう。(アンタッチャブルなんかはまさにいい例だ)
しかしコント漫才とかいう王道を外れたスタイルで、しかも本場の人間ではない関東芸人が優勝するのには我慢ならない、というわけだ。
もしこの仮説があっている場合、マヂカルラブリーが「自分たちの漫才は漫才じゃないのかな」と思い悩む必要はないことになる。
また「あれは間違いなく漫才だったよ」と擁護するのも不毛だ。なぜならそれは本質ではないのだから。
※もちろんこれは筆者の一仮説に過ぎない。願わくは「漫才か漫才じゃないか」論争が起こった時のツイート状況を誰か分析してもらえないだろうか…(他力本願)。
漫才は進化してきたしこれからも進化するし関西お笑いは最高
長々と語ってきて結局何が言いたかったというと、物事は常に変化するということだ。
その時代によって「正統派」漫才の定義が変わるだろうし、令和ロマンくるまさんいわく漫才そのものが古典芸能のような存在になっていく可能性すらあるのだ。
マヂカルラブリーの漫才スタイルもその中の一種に過ぎない。
そしてマヂカルラブリーへ中傷コメントを送る人たちに伝えたいことは、そんなことをしなくても関西お笑いは最高だということだ。
筆者にももっともっと活躍してほしいと願う関西芸人さんたちがたくさんいる。
しかしそれは他人の漫才を否定することでは実現できない。
新たな漫才時代を歓迎しつつ、変わらず関西芸人さんたちを応援していこう。
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